佐賀県出身の九州男児で昭和53年4月1日選手登録。どんな状況においても位置取りのうまさと天才的な勝負勘、最終周回4コーナーを回ってからのダッシュ力の鋭さから鬼脚といわれました。また、史上初めて特別競輪全制覇(グランドスラム・GP及びGⅠを12回獲得)を成し遂げるとともに、温厚な人柄からファンを魅了しました。
滋賀県出身で昭和25年7月20日選手登録。日頃の努力が見事開花し、昭和32年8月にベルギーで開催の世界選手権自転車競技大会に日本人選手として初めて出場しました。また、昭和29年から31年まで高松宮杯競輪3連覇、昭和34年第4回オールスター競輪をはじめ特別競輪8回獲得し、ファンの信頼を集めました。
熊本県出身で昭和24年2月1日選手登録。直線に入ってからの強烈な伸び脚しからヤマセイの燕返しといわれ、第1回高松宮杯競輪及び第1回競輪祭の優勝者で特別競輪を7回獲得。ハンドルさばきに優れ追い込み主体で「ヤマセイ」の名で親しまれファンを魅了しました。
京都府出身で昭和24年6月13日選手登録。努力と精進で日本選手権競輪は、昭和29年、30年と2年完全優勝、全国都道府県選抜競輪を5回優勝し特別競輪を7回獲得、3191回出走し通算勝利数は前人未到の1341勝をあげました。
千葉県出身で昭和54年4月1日選手登録。中学・高校時代はバレーボール部に所属、競輪とは無縁の環境で育ちました。徹底先行し、パワフルな走りと大柄な体を指し、ファンから「怪物」と呼ばれました。平成2年の競輪祭を制し、井上茂徳さんに次いで史上2人目の特別競輪全制覇(グランドスラム・GP及びGⅠを14回獲得)を達成。平成22年に日本競輪学校の第23代校長に就任しました。
東京都出身で昭和51年10月1日選手登録。38期の在校No1で19歳デビュー。4年目から追い込みに転身し全盛時は激しいほどのマーク技術を誇り、日本選手権競輪1回、競輪祭2回を獲得しました。江戸っ子らしい、親分肌の性格を持ち通称ヤマケン、「江戸鷹」の異名ももっていました。
千葉県出身で昭和51年10月1日選手登録。山口健治さん、柳井譲二さんとともに38期の三羽烏と謳われました。昭和53年の競輪祭新人王で優勝。その後、競輪祭競輪王、日本選手権競輪、オールスターを各1回獲得しました。デビュー後「快速先行」と呼ばれ、追い込みとなってからは「イン待ち日本一」のお墨付きを得ました。
佐賀県出身で昭和54年4月1日選手登録。ハイレベル43期の中核として期待通りの活躍をしました。また、九州軍団の先陣役としても役割を示し、高松宮杯を獲得。マーク屋となってからも全日本選抜、高松宮杯を制し、気迫あふれるレースぶりから「闘将」と呼ばれました。
青森県出身で昭和61年4月1日選手登録。日本大学在学中の昭和59年ロサンゼルスオリンピック・自転車競技スプリント種目で、日本人初の銅メダルを獲得しました。また、競輪選手として35連勝、オールスター2回、KEIRINグランプリを1回獲得。圧倒的な先行力で「ロスの超特急」と呼ばれました。
神奈川県出身で昭和34年6月13日選手登録。鍛え上げた持久力と比類なきトップスピードが繰り出す先行力は、全盛時から「逃げの神様」と呼ばれる存在となりました。生涯先行一本、その徹底先行はファンの熱い声援を受け、高松宮杯競輪、オールスター競輪、競輪祭等10回の特別競輪を制しました。また、昭和38年に初代新鋭王(後の新人王)と第5回競輪王に輝き、競輪選手で初めて年間獲得賞金額1千万円を突破し賞金王にも輝きました。
福岡県出身で昭和27年8月16日選手登録。昭和33年の 第3回オールスター競輪で、福岡県の選手として初の特別競輪を制覇。同年の第4回競輪祭も優勝。昭和39年、東京オリンピックの年に高松宮賜杯競輪を制覇しました。
宮城県出身で昭和41年8月1日選手登録。デビュー5年目の昭和46年の競輪祭、同48年の日本選手権競輪、同49年のオールスター競輪を制覇。群馬の福島正幸、田中 博とともに三強時代を築きました。昭和49年の静岡オールスター競輪では初代ドリームレース勝者となり、ファン投票1位、そして優勝と3つの第1位を最初に経験し、「ミスター競輪」と呼ばれました。